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伊豆・相模・熱海郷土史研究家 岩本直美さんから見る熱海

熱海に根付き、熱海と共に生きていく熱海人。その方ならではの目線で見る熱海についてお話を伺い、様々な角度から新たな魅力をお届けし、熱海をもっと好きになっていただく企画です。

第5回は熱海の伊豆山で生まれ育ち、伊豆山の歴史を熟知している郷土史研究家の岩本直美さんに伊豆山の由来や歴史、そのほか興味深いお話を貴重な資料とともに聞かせていただきました。インタビュアーは売買営業の大島と賃貸営業の飯田が担当させていただきました。

伊豆・相模・熱海郷土史研究家 岩本 直美 さん(写真右)
インタビュアー
ロイヤルリゾート 熱海駅前店 売買営業 大島 (写真中央)、賃貸営業 飯田 (写真左)

そもそも、なぜ「伊豆山」なのか

「比叡山」や「高野山」、「伊豆山」という山はないのに、なぜ「伊豆山」と呼ぶのか。これは修行道場として名高い場所を表すための呼び方で、「伊豆山」は伊豆地域の宗教活動が盛んだった場所を意味しています。宗教の場所だったところに人が集まり、そこに商売があって集落ができました。伊豆山には籠屋、紺屋、桶屋などの伊豆山神社で必要な物品を作ったり、醤油や味噌を作る食の商いも多くありました。岩本家の屋号は玉屋といいますが、「玉」は「銭」を意味します。玉屋には「伊豆国走湯山伊豆山権現豆玉部」という金貸帳が残っており、かつては旅館をやりながら金貸業もしていたと記録されています。

岩本家の屋号「玉屋」の家紋が染まる希少な手ぬぐい

伊豆山の神は?

現在も伊豆山神社の本殿に祀られている神はこれまでに4回程しか表に出ておらず、大陸風の顔をしている全長2メートル12センチの宝物で国の重要文化財に指定されています。

箱根神社の絵巻によると、伊豆山権現は大磯の高来(高麗)神社に高句麗の王の一団が開拓民として約20年ほど滞在した後、箱根神社と伊豆山に別れたとあります。また、実際に京都の醍醐寺に残されていた墨書きの文書を活字に起こした「醍醐寺文書」には醍醐寺が荘園として持っていた下田の白浜の土地を伊豆山の堂社が傷んでいたので、伊豆山へ譲ることが記されており、室町時代は醍醐寺が伊豆山の本山だった記録も残されています。

修験道としての伊豆山

伊豆山神社の右側を20分くらい登ったところにある白山神社はかつて修験道で山伏のような行者が修行する道場でした。江戸時代の中期の文献には毎年12月1日には江戸から来た行者が祝詞や経をあげて山に籠り15日間の修行を行ったという記載があります。12月15日になると行者と先達(せんだつ※案内人)と同行3人の計5人で45日間かけて伊豆半島を伊東から熱川、稲取と南下して下田を越えて田牛(とうじ)の先の神子元島という島で1泊。西海岸から沼津、三島を通って函南、熱海、白山神社へ戻るというルートで、伊豆を一周しながら128枚のお札を入れていく修行でした。明治初期に修験道を政府が宗教としては認めなかったので中止になります。1年費やして書いた自筆の小説にも記してありますが、その頃の先達の宿がこの岩本家でした。

伊豆山の歴史を記した自筆の小説や御朱印帳、古文書などの貴重な資料の数々

伊豆山と歴史的宝物

岩本家に残る安政〜明治10年頃まで使用されていた宿帳には、最初に江戸から来た宿泊者の名前、日にち、住所、宿賃が記載されていて、当時の伊豆山権現にお参りに来た人は、江戸や伊豆一円からの宿泊者が多いことがわかります。「伊豆山権現」とは神仏習合という神と仏が一緒に祀られている場所で、明治になった時、神と仏を分けなければならない神仏分離令が出ますが、伊豆山は神を主とし仏教系の仏像などはすべて捨てられたり売られたりした残念な過去があります。快慶作の阿弥陀如来像は広島の耕三寺へ移り、源頼朝の側近・加藤光員(みつかず)が石橋山の戦いで伊豆山権現に入り僧侶になった時に寄贈した「磬(密教で使う仏具)」は現在は国の文化庁が所有し重要文化財となっています。伊豆山から流出した歴史的宝物は日本の各所にたくさん散逸しています。

伊豆山と源頼朝の深い絆

伊東祐親の娘の八重姫と通い婚をしていた頼朝は、千鶴丸を授かります。京都大番役の任務を終えて伊豆に戻った祐親は、頼朝への怒りと平家に滅ぼされるかもしれない危惧から千鶴丸を殺してしまいます。頼朝を追う祐親から、祐親の次男の祐清(すけきよ)は頼朝を逃がし、その時に頼朝が立ち寄った水場として有名な「頼朝の一杯水」を通り伊豆山へ。頼朝は12歳で伊豆半島に流され、幼少時代は写経する日々でした。その時の師匠が伊豆山の良暹(りょうせん)和尚で、動物でさえ殺生をする者は入れない聖域の伊豆山は、頼朝にとって唯一の頼れる場所でした。幼少期の縁が頼朝の命を救うこととなります。源氏が世を治め頼朝が鶴岡八幡宮を遷した際には、幼少時代の師であった良暹和尚を初代別当に任命しています。伊豆山と鶴岡八幡宮は頼朝の縁で繋がっているのです。また、源氏の挙兵と平家追討を命じた高倉天皇の弟である以仁王と共に令旨を全国の源氏に送った源頼政は、平家に追われて宇治で自害しました。その墓は平等院鳳凰堂の真後ろにあります。「伊豆山」の歴史は広く深く、私たちが知る以上に歴史的宝物とともに、各所に轟いていることに驚かされます。

伊豆山神社フォトギャラリー

《岩本直美氏プロフィール》

熱海中学・伊東高校・法政大学経営学部卒

  • 熱海市社会教育委員
  • 伊豆山神社伶人(雅楽)
  • FM熱海湯河原「歴史よもやま話」担当
  • 宅地建物取引士